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花見の起こり

花見の歴史は古く、奈良時代には、花を見ながら宴を催していたという記録が残されています。

日本の最古の歌集である万葉集(7世紀後半〜8世紀)には、梅と桜が含まれる歌が約140首あります。万葉集の作者は、基本的には皇族、貴族なのですが、下級官人、防人など一般人に近い身分も含まれているため、この時代の人々の暮らしを伝える資料となっています。1400年も昔から、人々は花を楽しみ、生活の潤いとしていたのです。

奈良時代の花見は、梅が中心だったようです。万葉集の中でも、桜より梅の歌の方が倍以上も多く、中国文化の影響を強く受けてたころで、観賞用として伝来したばかりの梅に、貴族を中心に人気が集まったのでしょう。

平安時代の歌集、古今和歌集(10世紀ごろ)では、花と書けば桜のことを意味するように変わっていきます。

梅から桜へと好まれる花が変わったのには、平安の「国風文化」に理由があります。中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、平安文化は日本古来のモノや習慣が大切にされました。遣唐使の廃止などから、外交を絶ち日本独自の文化を形成してきた時代といわれていたのですが、実はそうではなく、中国(唐風)の文化を踏まえながらも日本の風土や生活感情を重視する傾向が強まっただけ、というのが最近の解釈です。

よって、渡来植物である梅よりも、日本の桜が見直され、歌詞や遊びにも桜が多く関わってきたのです。

平安時代中期に書かれた源氏物語にも、花の下の宴の様子がでてきます。平安は時代が長く、今の日本の文化の基礎でもあります。平安時代に「花見は桜」となったことが、現代まで受け継がれているのです。

宴会型の「花見」が、庶民に広がったのは、江戸時代といわれています。それまでの文献の中からも、花見自体は階層を問わず楽しまれていたようですが、天皇主催の花宴のように、食事や舞などの芸を持ち込み、イベントとして行われる現在の花見の様式が、一般人にも広まり始めます。

また、桜といえば、ひがん桜だったのが、ソメイヨシノで定着するのも江戸時代です。第8代将軍徳川吉宗が、江戸の各地にソメイヨシノを植え、花見を奨励したのだそうです。

余談ですが、吉宗という人は、将軍では初めての養子からトップに成り上がった人で、享保の改で幕府の財政を救ったと習いましたよね。自分の生活も質素倹約で、厳しい人だったのだろうと想像がつきますが、武芸を好み、鷹狩りを復活させたり、絵をたしなむなど、豊かな人間性だったという逸話もたくさん残されています。象を輸入して陸路で運ばせ、象ブームを起こしたのも吉宗です。

この将軍が、江戸の各地に桜を植えたのは、治水と区画整備のための埋め立ての一環です。ただ単に桜を植えたのではなく、都市計画として考えられた策だったのです。

面積のわりに東京にたくさんの桜の名所があるのは、現代に残された江戸幕府の遺産なのですね。

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